波 2002年9月号より


〔インタビュー〕
村上春樹
海辺のカフカ』について

                                                                                                                                                              • -


 村上春樹氏待望の長編小説『海辺のカフカ』が刊行されます。作者にこの小説が完成するまでの話を語って頂きました。

――タイトルは、いつどのように決まったのですか。

 いつ思いついたのかな。よく覚えてないけど、書き始めてしばらくしてからだったと思いますね。カフカはもちろん僕の好きな作家だし、音の響きも好きだった。「海辺のカフカ」って、なんかイメージを喚起するものがありますよね。何かの拍子にふと思いついて、頭の中でしばらくその響きを転がしてみて、「うん、これでいこう」って思いました。そのあとはそれ以外のタイトルって思い浮かばなかったですね。

――書き始めたのはいつ頃ですか。

 面白いんだけど、ちょうど野球シーズンの開幕まもなくの頃に書き出して、ヤクルトが優勝を決めたころに第一稿を書き上げたんです。これって『風の歌を聴け』と同じなんです。あのときも開幕日に書き始めて、優勝が決まった頃に書き上げた。広岡監督のもとで初優勝したときです。なんか因縁みたいだけど。

――『ねじまき鳥クロニクル』以来の長い小説ですね。

ねじまき鳥クロニクル』を書いたあと、とにかく自分の中にあった物語的なものをオールアウトで出し切ったという感じだったんです。四年くらいかけて延々と長い話を書いていたからね。四年はまあ長かったな。そのあいだずっとアメリカに暮らしてましたしね。
 へとへとに疲れて、もう何も考えられなくて、そのあといくつか短編小説は書いたけど、長編小説を書こうなんていう気はぜんぜん起きなかった。次に『アンダーグラウンド』に行ったわけですが、『アンダーグラウンド』はノンフィクションというか、要するに聞き書きだから、他人の物語を採集する作業なんですね。どんどん吸い込んでいく作業なんだ。それに対して小説を書くというのは、これまでためこんだものを吐き出す作業です。そういう意味ではまったく逆のことをやっていたわけです。一年間かけてできるだけうしろに引いて自分の気配を殺して、他人の話に耳を傾けて、それを自分の中に積み上げていったんです。
 でもね、自分の中にいったん取り込んだものを、物語のかたちにうまく変換して、外に出していけるようになるまでにはやっぱり時間がかかるんです。そんなに都合よくすっと出てくるものじゃない。積み上げるだけ積み上げておいて、あとは鳥が卵をあたためるみたいにしっかりと抱えこんでいなくちゃならない。体験の規模が大きければ大きいほど、意味が深ければ深いほど、その時間は長くなるんです。じっと我慢して待っていなくちゃならない。
アンダーグラウンド』を書いてしばらくして、どうしても小説を書きたいという気持ちになって、それで『スプートニクの恋人』を書きました。僕はやっぱり小説家だから、ある程度時間がたつと、小説って自然に書きたくなるんです。ダムに水がたまるみたいな感じで。でもその時点ではまだ、『アンダーグラウンド』の作業のあいだに僕がインテイクしたものを、うまくアウトプットするための準備は整っていないなっていうことが、自分でもわかっていた。まだ僕は中間地点にいるんだっていうことが。
 だから僕としてはとにかく『スプートニクの恋人』では、次の長編小説のための準備みたいなことをしておこうと考えたわけです。野球でいえば、シャープな単打を狙っていこうと。長距離を狙うんじゃなくって。僕はそのためには、まず文体の整備をしてみたかった。具体的にいえば、これまで僕が使ってきた文体の総ざらえみたいなことを、ここでとことんやっちまおうと。そういう実験的なことをするには、あれくらいの長さの小説って絶好の場所なんですね。僕は「中編小説」って位置づけているんだけど、短編では入れ物として短すぎる、でも本格的な長編まではもっていけない、というあたりの長さ。だからね、あの『スプートニクの恋人』という小説は、物語という以前に、文体のショーケースみたいになっている。文体の問題をどこまでもぐいぐい追求していったら、こういう話になりましたみたいな。
 そのあとしばらくして、今度はまとめて短編を書いてみようと思った。それが『神の子どもたちはみな踊る』です。ここでも僕がいちばん意識したのは、文体の問題です。今度は全部三人称で、いろんな文体で、ワンテーマで、それぞれにまったく異なった種類の物語を書いてみることにした。それをひとつにまとめて「コンセプト・アルバム」みたいにしようと。僕はこれまでだいたいにおいて一人称で物語を書いてきたから、三人称の経験ってあまりないんです。でもとにかくやってみようと思った。どうしてそう思ったかっていうと、いろんなボイスが組み合わさった長編小説をこの先書くためには、三人称を有効に使う必要があったからです。もちろん一人称だけでもそういうことはある程度できるんです。そのへんは純粋にテクニックの問題だから。でもね、もうひとつ小説のスケールを大きくするためには、ボイスの多様化というのはどうしても避けて通れない問題だった。
 そういう気持ちになったのは、やはり『アンダーグラウンド』を書いた影響が大きかったと思います。あの仕事のあと、ずいぶん時間がたってからも、いろんな人々のボイスが僕の頭の中でずっと響いていて、そういう存在感みたいなのはけっこう強かったんです。とてもリアルだったし、切迫したものだった。僕としてはそういう肌身の感覚を大事にしたかったんです。そういうことも、自分の文体をあるレベルでは作りかえようと考えた契機にはなっているんじゃないかな。

――この小説ではいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに物語が進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?

 いや、そういうものは何もないです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えてない。最後がどうなるかとか、いくつかの話がどう結びつくかというのは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。ただ、書き始めるときに「森のことは書きたいな」と思っていました。それは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のイメージの続きとしてね。だから先になって森の中の世界が出てくるということはだいたいわかっていた。わかっていたのはそれくらいかな。あとはもう、行き先は馬に聞いてくれみたいな……。
 もともとは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の続編みたいなものを書こうと考えていたんです。小説の最後の方で森に入っていった人々のその後のことが、僕自身気になっていたから、そういうことについて書いてみたいという気持ちはあった。でも具体的に考えれば考えるほど、そんなことは不可能なんだとだんだん思えてきた。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いてからもう15年以上たっているからね。それでぜんぜん違う小説を書こうと思ったんだけど、やっぱり森のイメージだけは描いてみたかった。そのへんの思いはけっこう強かったですね。

――15歳の少年を主人公にしようというのは、かなり早い段階で決まっていたのですか?

 そうです。決まっていた。とにかく15歳の少年を中心に据えて話を動かしてみようと。そうすればいろんなことがうまく行きそうに思えたんです。そのことは書き始める一年前に決めていて、そのアイデアを頭の中にずっと寝かせていた。その少年が動きやすい環境を意識の中でじわじわと作っていったんです。で、そういう環境が整ったと感じたあたりで書き始めた。僕は小説を書くことに関してはけっこう気長というか、わりに待つんです。じっと。タイミングがほとんどすべてだから。
 僕の小説にはこれまで20代後半から30代前半くらいの主人公というか、語り手が多かったと思うんだけど、それを今回15歳にすることによって、小説的な視点をいろんな方向にシフトできる位置をうまく見つけられたなという気がしたんです。僕自身すごく自由になれたという感覚があった。「僕でありながら僕でない」という自立性みたいなものが、よりくっきりしたというか。
 主人公を15歳の少年に設定したことによって、もちろん文体も変わってきます。たとえば15歳の少年はそんなに華麗な比喩を使ったりはしない。彼はある意味では切羽詰まったところでぎりぎりに生きているから、文体もそれにあわせてクリスプになってくる。物語を有効にサーバイブするための文章になってくる。そうならざるを得ない。凝ったレトリックも必要ではなくなってくる。もちろん文章はずいぶん注意深く書き直したけど、書き直せば書き直すほどシンプルになってくるというところはありましたね。そのへんがこれまでの僕の文体との違いになっているかもしれない。
 僕がとくに気をつけたのは、15歳の少年が出てくるからといって、あまり啓蒙的にはならないようにしようということです。彼を導いてやろうとか、そういうことはするまいと。僕がやりたかったのは、彼に考えさせること。自分の頭で判断させること。作者が彼を導いてはいけない。さっきの話で言えば、いろんな元型の姿を彼の前に示して、それを彼が自然に理解し、呑み込み、受け入れていくようにすること。それが作者に与えられた大事な役目なんだと思います。

――この作品では、神話性というものが強くあらわれています。

 たとえば『アンダーグラウンド』の仕事をして、それが僕に与えたものの重みや意味を誰かに説明することって、事実上不可能なんです。もしやったとしたら、それはかなり偽善的なものになると思います。多かれ少なかれ言葉だけのものになってしまう。腹にたまらないというか、少なくとも人の心にはまっすぐ届かないんじゃないかと。新聞なんかのインタビューを受けていて、そういう質問をされるたびに僕の中に空しさみたいなものがこみ上げてくるんです。無力感というか。そういうのって僕のやるべきことじゃないなとつくづく思ってしまう。
 僕がやるべきことはたぶん、それを言葉で説明することではなく、物語という新しい土地に移しかえることなんだよね。というか、物語的にそれを俯瞰すること。そこにあるビジョンを、フィクション総体にぱっと焼きつけてしまう。たとえはちょっと変だけど、レインマンが床に散らばったおはじきを数えるとき、まずそこにある光景を静止したビジョンとして自分の頭にぱっと焼きつけてしまうんですね。いちいち数を数えたりはしない。小説家というのはそれとだいたい同じようなことをやるわけです。要するにものごとを別の回路に放り込んでしまう。そしてその回路の持つ特定の生理を通して物事を理解する。簡単に言えばそれがフィクション化ということです。
 神話というのも、要するに別の同時的回路なんです。神話という元型回路が我々の中にもともとセットされていて、僕らはときどきその元型回路を通して同時的にものごとのビジョンを理解するんです。だからフィクションは、ある場合には神話のフィールドにぽっと収まってしまうことになる。物語が本来的な物語としての機能を果たせば果たすほど、それはどんどん神話に近くなる。もっと極端な言い方をするなら、分裂症的な世界に近くなっていくということかもしれない。
 そういう意味では僕の小説は、基本的に解析には向かないところがあるんじゃないかな。世間には僕の小説についての解説書がずいぶんいっぱい出ているみたいだけど、そういうのもその理由のひとつなんじゃないかという気がします。別に自慢するわけじゃないけど、ふとそう思うことがあるんです。僕は自分の中にある元型みたいなものをいちいち分析するんじゃなくて、それを石みたいに呑み込んで物語を書いているんじゃないかって。何も考えないで書いているんですよね、結局のところ。そのへんの感覚がどの程度まで読者に伝わっているかというのは自分ではよくわからないけど。

――村上さんにとって、小説を書くというのはどんなことなのでしょう。

 小説を書く、物語を書く、というのは煎じ詰めて言えば、「経験していないことの記憶をたどる」という作業なんです。もっとわかりやすく言うと、あなたが未経験のロールプレイング・ゲームをする。でもそのゲームをプログラムしたのはあなたなんです。でもその記憶は、ゲームをするあなたの人格からは失われてしまっている。一方で、そのプログラミングをしたあなたの人格はゲームをしていない。そういうかなり分裂的な作業なんです。右手は左手のやっていることを知らないし、左手は右手のやっていることを知らない。そういう作業が明確に分裂すればするほど、そこから生み出される物語は説得性を持つ。つまりあなたの中の元型により近接するということになるんです。うまく説明できないけどね。
 だから要するに、もちろん僕の場合で言えばということだけど、最初に結論ありきじゃ物語にならない。わからないところに、ゼロから物語を立ちあげていくから意味がある。結末のわかっているスポーツ・ゲームと同じで、予想できるような物語には意味がないんです。でもそれと同時に、必ず意味のある結論にたどり着けるという確信はある。で、そこにあるはずの結論にどのようにしてたどり着くか? それがいちばん大事な問題になってきます。

――最後に読者へメッセージを。

 この『海辺のカフカ』という小説については、というかほかの小説についてもそれはみんな同じなんだけど、とくにこの小説については、僕はあんまり解釈みたいなことをしたくないんです。言葉でいちいち解釈しちゃうと多かれ少なかれ嘘になっちゃうし、意味ないから。もちろんこれは実作者の側から言って、ということですけどね。僕としては読者のみなさんに、解析とかそういうこと抜きで、総体としての物語を、情景を、なるべくそのままのかたちでぽっと受け入れてもらえればいいなと思っています。むずかしいことを訊かれても、僕にもよくわからないし(笑)。

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/353414.html