スクラップノート・須賀敦子

イタリア文学の翻訳、独特の語り口で書かれたエッセイで知られている、らしい、須賀敦子というひと。『ユルスナールの靴』というエッセイを数週間前に新宿のジュンク堂で買った。解説を川上弘美が書いていたから。イタリア文学というのには、あまりなじみがない。ユルスナールというのが、作家の名前であるというのも知らなかった。毎日新聞に『須賀敦子を読む』という評伝のような本の書評を池澤夏樹が書いていたのでノート。



毎日新聞 2009年6月14日 東京朝刊
池澤夏樹・書評 『須賀敦子を読む』

http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20090614ddm015070005000c.html


須賀敦子を読む』 毎日の本棚 09.06.25.
毎日新聞/東京夕刊

http://mainichi.jp/enta/book/news/20090625dde018040045000c.html


今週の本棚:池澤夏樹・評 
須賀敦子を読む』=湯川豊・著
 (新潮社・1680円)

 ◇没後十年、熟成された指南書
 一般に作家は奔放を旨とする。すべての文学はもう書かれてしまったという強迫観念から、なんとか既成の枠の外へ出ようとするものだ。

 しかし中には非常に用心深い作家もいる。素材が自分の内で成熟するのを待ち、形式を模索し続ける。それにふさわしい文体を時間をかけて探す。

 須賀敦子はそういう作家だった。だから出発が遅くなった。ミラノ、コルシア書店という場での十年を超える交友について書き始めるまで、日本に戻ってから二十年を要した。そしていきなり『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』とすばらしい本を書いた。『トリエステの坂道』と『ユルスナールの靴』が続いた。

 彼女が惜しまれて亡くなってからもう十年以上になる。その間に全集が編まれ、読者は増えた。それは間違いないのだが、ぼくたちは本当に深く正確に須賀敦子を読んできただろうか?

 湯川豊の手になるこの本のページを繰りながら改めて自省する。むろん文学の読みかたは自由である。しかし、作者は何かを伝えたいと思って書いたのだから、その核心に到(いた)る道筋というものがある。

 湯川は須賀自身と同じくらい用心深い。結論を急がず、須賀の文章をていねいに読んで、賞味して、須賀の真意が自分の中で熟するのを、本当に腑(ふ)に落ちるのを待つ。だからこそ、この優れた指南ができるまでに十年以上の歳月が必要だったのだろう。湯川はその点で須賀をなぞったかのごとくである。

 須賀敦子の文業にはいくつかの謎がある。カトリックの改革を目指して運営されたコルシア・デイ・セルヴィ書店というサロン的な本屋に集まった人々のことは書いたが、そこでの活動の思想的な内容には触れない。

 そもそも彼女自身が非常に自覚的なカトリックの信徒であったことが著作の表層からは見えにくい。

 彼女が書いたのはエッセーであるけれども、自分の人生を語ろうとしたのではないようだ。過去からエッセーの形で語るにふさわしい素材を選び出して、それに合った文体を敬愛するナタリア・ギンズブルグに仰いで書いた。須賀は『コルシア書店の仲間たち』で「『孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということ』を仲間のひとりひとりを呼び出し、再現し、検証しようとした」と湯川は言う。須賀が語りたいのは自分ではなく人間だった。孤独という基本の資質だった。

 あるいは、「過去に出会った人たちを、現在の意識のなかで多角的に見る。記憶によるかに見えて、ほとんどつくりあげている。それによって、回想的エッセイは、限りなく一個の『作品世界』に近づく」と言う。彼女はまずもって人を見る目であり、考える心であり、書く手だった。

 この本を読みながらぼくは途中で何度となく須賀の本を再読する誘惑に駆られた。須賀と湯川とぼくの架空の会話が始まりそうな気がしたが、それを抑えて読み続けた。

 多くの納得と共に読み終えて、それでも謎は残る。当然ながらまだ読み解けない部分がたくさんある。

 たとえば、彼女が導きの星として選んだのはナタリア・ギンズブルグであり、マルグリット・ユルスナールであり、シモーヌ・ヴェイユである。この女性の系譜は何を意味するのだろう。「ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか」知りたいという須賀の思いにはどういう答えが出たのだろう。須賀は自分の中の女性なる部分をどう扱っていたのだろう。

 この問いを念頭にもう一度全集に向かおうか。

毎日新聞 2009年6月14日 東京朝刊

須賀敦子:その人気の秘密 湯川豊さんが初の本格的評論出版

須賀敦子さん=1995年12月撮影 ◇懐かしい日々「生き直す」文体 孤独ゆえ神とのつながり意識
 小説のような味わいのエッセーで知られたイタリア文学者、須賀敦子が亡くなって11年。50代半ばで文筆活動に入った須賀の作品は決して多くはないが、今なお新たな読者を獲得している。全集は早くも文庫化され、生涯をたどるテレビ番組も好評。5月には初の本格的評論『須賀敦子を読む』(湯川豊著、新潮社・1680円)が出版され、直後に増刷となっている。じわじわと広がる須賀人気の秘密を探った。【斉藤希史子】

 湯川さんは文芸春秋の編集者として、須賀の第2作『コルシア書店の仲間たち』(92年)を手掛けた。イタリア滞在経験に基づく、回想風エッセー。「内に『小説』を孕(はら)んでいるような構造と、それを支えている論理的な文体」は、本作で確立されたとも言えるだろう。

 須賀には、いくつかの謎がある。まず、少女時代から執筆を<息をするのとおなじくらい大切>に思いながら、61歳まで自著を出版しなかったこと。湯川さんは残されたエッセーを読み込み、ナタリア・ギンズブルグの小説『ある家族の会話』の翻訳(85年)が、須賀に転機をもたらしたと推測する。

 <自分の言葉を、文体として練りあげたことが、すごいんじゃないかしら。私はいった。……いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った>(『コルシア書店の仲間たち』)

 <いつかは自分も書けるようになる日>を待って、己の文体を模索していた須賀。人生の終盤にギンズブルグを介して、ようやく「エピソードとゴシップを連ねていく語り口」を手に入れた。その筆法で亡き夫や仲間を再現し、懐かしい日々を「生き直す」ことから始めたと、湯川さんは見る。「体験を書きつつも、私小説ではない。それは確かに、時代を画するスタイルでした」

 もう一つの謎は、信仰の問題だ。「コルシア書店」はミラノを拠点に文化活動を展開した、カトリックのグループ。にもかかわらず「仲間たち」の思想や信条を、須賀は作中で説明しない。すでに大家のような筆力で構成に破たんはないものの、肝心のテーマは注意深く迂回(うかい)されている。信仰について<書けるようになる日>を待つ心理が、ここでも働いたのだろうか。

 須賀のデビューが遅れた理由に、社会活動への没頭が挙げられる。イタリアから帰国後の数年は、信徒としての実践に明け暮れた。「文学と信仰の両立」は生涯の課題として、常に意識されていたに違いない。

 未完に終わった『アルザスの曲りくねった道』(仮題)は、初の小説として構想されていたと、湯川さんは指摘する。「いよいよ終生のテーマに取り組むべく、エッセーから小説へのステップに足を掛けた矢先、病に倒れた。75歳まで生き永らえていたら、信仰の問題に真っ向から取り組んだ、類のない小説を仕上げたことでしょう」

 時が満ちるのを待つ姿勢、信仰を貫く生き方……。ある意味で日本人離れしていた須賀の文章には、アジア的な湿り気がない。「人間はしょせん孤独。それゆえに神とつながることができる。寂しさをむしろ恩寵(おんちょう)ととらえる、そんな覚悟が感じられます」(湯川さん)

 万人がブログで自身の日常を垂れ流す現代。「だからこそ、同じく体験をつづりながら己の文学と文体を突き詰めていた須賀さんに引かれる人が多いのでは」と、湯川さんは分析する。本書では個人的な思い出に頼らず、あくまで文章をよすが須賀敦子論を展開した。親交の深かった知己ならではの、節度が伝わってくる。

 ◇全集も異例の売れ行き
 BS朝日は、06年に制作したドキュメンタリー番組「イタリアへ〜須賀敦子 静かなる魂の旅」が好評。再放送の要望が絶えないという。

 「須賀敦子全集」(全8巻、別巻1)を編集した河出書房新社の木村由美子さんによると、第1巻の発行はハードカバーと文庫を合わせて3万7000部。個人全集不振の時代に「出版界の奇跡」と評された。没後すぐに刊行した『文芸別冊 須賀敦子 霧のむこうに』も11刷7万5000部と、同社では「異例の数字」だ。

 木村さんは「今も『須賀さんに相談できたら』と思うことが、しばしばある」と言う。「でも、作品がありますから。文章の中に須賀さんがいて、孤独や試練に向き合う勇気を与えてくれる。本が読み継がれているのも、多くの人が行間に救いを見いだすからではないでしょうか」と、木村さんは話している。

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 ◇須賀敦子
 1929年、兵庫県生まれ。聖心女子大を卒業後、パリ留学を経て58年、イタリアへ。コルシア書店の活動に加わる。活動の中枢を担っていた夫の急逝後、72年に帰国。大学の教員や通訳・翻訳業の傍ら社会活動を展開し、50代半ばでエッセーの発表を始めた。98年、心不全のため死去。著書に『ミラノ 霧の風景』『ユルスナールの靴』など。